執筆は、いつも矛盾に満ちている

執筆は、いつも矛盾に満ちている

夜が明けてきました。

今日は曇っているので、空の雲全体が少しずつ明るくなっていくのが面白いですね。

ラヴェルの『ダフニスとクロエ』だったでしょうか、夜明けの様子を描いた曲があります。冨田勲の演奏を思い出します。

今日の早朝は、明日更新されるWeb連載「数学ガールの秘密ノート」第403回を書いていました。すでに大体書き上がっていて、あとは午前中に読み返して更新予約をする予定です。今回もなかなか面白い対話ができました。ゆるやかなのに刺激的。楽しいです。

このWeb連載は10年以上続けているわけですが、自分としてもこんなに長く続くとは驚きです。より正確に言うならば、もう10年経ったかと驚いているところでしょうか。つまりつい先日始めたような気分ということです。

毎回登場人物の対話を書き留める仕事をしていて、これには何とも言えない喜びがあります。書くこと自体が楽しいですね。

書くときにはほとんどの場合、あまり先のことは考えないようにしています。その時点での会話の流れに意識を集中して書き、私が登場人物の邪魔をしないようにしているのです。

10年も執筆していると、それなりにノウハウがあるんですけれど、あまりそれに縛られないようにもしています。

Webサイトも更新の仕組みも編集も自分でやっているので、ほんとに好きなように書けるわけですから、あまり必要以上に型にはめた書き方にならないように心がけています。

もちろん毎週コンスタントに続けるためには、形式上は整える必要がありますけれど、その中身というか、進め方については、毎回よく考えて機械的にならないようにしています。

この辺の感覚は言語化が難しいところですね。自分としてはよくわかってるんですけれど、言葉にしてしまうと(あるいはマニュアル的にしてしまうと)、その意味が失われてしまうところでもあるからです。

言葉にすると、自分のやっていることは、矛盾で満ちていると感じてしまうからかもしれません。

できるだけ形式的に進めるけれど形式的にならないようにするとか、機械的に着手し機械的に終わらせるんだけど、内容は機械的じゃないとか、制御するけど制御しないとか、いくらでも矛盾に満ちたことをかけてしまいますね。一言で言えば「臨機応変」なのかもしれませんけれど、それともまた違うんだよな。

「できるだけ生きているものとして扱う」というのはなかなか良い表現かもしれません。登場人物や、そこで行われる対話や、それらをできるだけ生きているものとして扱うということです。

生命を維持するために、定期的に食物を食べ、呼吸をする必要があるように、定期的なあるいは機械的な操作やサポートは必要です。でもそれだけではただ生きているだけになってしまうので、いつもと同じではない何か、いつもとは違う何かを吹き込む必要があると思っています。命の息吹きというと大げさですけれど。まさに息を吹き込む感じでしょうか。

Web連載に限らず、自分が書く文章全般の話をしています。

生きていることを示すためにやたらと変わったことをする必要は無い。むしろ機械的で定期的で定型的な活動をする方が生きていることを示す場合があります。でもそれだけではまずくて、変化や刺激や思いもかけないこと、生きていくために必要になります。それは、生活や人生の話にも聞こえますけれど、文章を書く話にもそのまま通じるように思います。

文章を書く楽しさ、本を書く楽しさというのは、そういうところにもありそうです。

自分が工夫する余地があるようでいて、自分が工夫する余地がないみたいな感覚が面白いんですよね。また矛盾だ。

朝の散歩をしながら、そんなことを考えていました。

いつも私の話を聞いてくださり、ありがとうございます。この文章は、朝の散歩をしながら、iPhoneに音声入力して書いているので、本当に「私の話を聞いてくださり、ありがとうございます」という気持ちになります。

それでは、今日も、素晴らしい1日になりますように。

#結城浩のひとりごと

2023-09-21 05:46:06 +0900

この文章は、音声入力を利用して結城浩のマストドンに投稿したものです。

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki


『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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