仕事を「楽しむ」感覚について思うこと

仕事を「楽しむ」感覚について思うこと

ちょっとした気持ちの持ち方の違いなんですけど、「仕事を楽しむ」感覚と、「仕事を処理していく」という感覚は大きな違いがあるように思います。

仕事を処理していくと考えると、どうしても流れ作業的になってしまって、仕事に追われている感覚に近づいていくように思います。そもそも仕事はなくならないわけなので、いくら片付けても処理しても残ってるものはありますから、あまり気が休まらないですね。

限られた時間でやることは間違いないので、急ぐ必要はあるんですけれど、そのことと「処理する」という感覚は少し違うと思います。

仕事を楽しむというと、いろいろ語弊があるんですが、言いたいのは、自分がやってるんだという実感といいますか、今何をやっているのか、その意味をはっきりと自覚するということをイメージして話しています。

あまり伝わってる感じがしませんけど、話を続けます。

日々の作業を、ルーチンワークとして着手することはいいんですよ。ある意味機械的に、時間が来たから作業を始めるみたいなことはとても大事で、気分が乗ったときだけ仕事を始めるというのではなかなか進みません。その点については、楽しんでとか言う余計なものは入らなくて時間が来たから始めるというので充分です。

でもそのルーティンワークを、作業の中身まで及ぼしすぎるのはあまり良くありません。そういう話なのかな。

作業の中身までルーティンワークにしてしまって、右から左に作業を流していくっていうのはあんまりよろしくないですね。

これは集中するということにもつながるんですけれど、今目の前にある作業に全力を挙げて取り組む。そういう感覚を私はどうやら「楽しむ」と表現しているようです。どうしてそれが、全力を挙げて取り組むことが楽しむにつながるかというと、それは目の前の「それ」を十分に味わうことだからです。

今やっている作業に関するアイディアがわいたら、それを試してみるとか、少しだけ時間を余分にかけてひと手間かけてみるとか、いつもと同じやり方をするか、違うやり方をするかを考えるとか。そういった自分なりの工夫を今やっている。目の前の「作業」に込めて見るのは1つの表れです。全力を挙げて取り組んで「楽しむ」ことの表れという意味です。

全力を挙げて取り組むと、何が起きるかというと、自分の中に多重の感覚、様々なレベルでの経験が積み重なります。これまた説明しないと伝わらなさそうですけれど、話を続けます。

流れ作業のように取り組んでいると、自分の記憶にも残らないし、そこから得られる知見もありません。でも、楽しみながら取り組んでいると、作業レベルの知識と、作業を管理するレベルの経験と、その他様々なレベルでの経験が自分の中に蓄積されていくような感覚があります。それは確かに楽しい感覚ですね。しかも時間を有効に使っている感じがします。

なぜかというと、多重の経験を積み重ねているために、同じ時間が何倍にも生きるからです。

作業している途中では、そんなふうに、自分と深く関わりを持たせながら進めていきますけれど、作業に着手するときには全く違うのは面白いですね。作業に着手する前に、いろいろ自分との関わりを考えすぎると、何が起きるかというと、作業を開始するためのハードルが高くなってしまうのです。着手しにくくなります。これは仕事を進める上で大敵です。

ですから、着手するときには機械的にルーティンワーク的に機械的に始める。でも、いったんとりかかったらば、全力を挙げて取り組む。そういう進め方が私は気にいっているようです。

2023-07-26 05:44:53 +0900

この文章は、音声入力を利用して結城浩のマストドンに投稿したものです。

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki


『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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